れいるです。今回は、劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライトを観劇して気持ちが昂ったので、何かしら書いていきたいと思います。
とはいえこの作品、オタクの好きを全力で詰め込んだようなもので、それに圧倒されて単純に感想を言おうとするとあらゆる要素に対して「いい…」とか「好きだ…」としか言えなくなってしまいます。大迫力のレヴュー連打で感情を揺さぶられて文字通りエモの塊になってしまう。これがこの作品のいいところであり、またある意味「わかりやすい」部分だと思いますが、同時に少し「わかりにくい」部分もあります。めちゃくちゃな、そして色々なモチーフがそれです。トマトだったり、東京タワーだったり、キリンだったり...。これらが「わかりにくい」のは、何かを象徴しているのは感覚的にわかるが、その何かを具体的に考え出すと難しく、またレヴューのスピード感に飲まれて考える暇もないからでしょうか。最初に弾けるトマトを見て「何か死んだ?」みたいなことを感覚的にはわかるが、その何かは少し考えないとわからない。これが感覚的理解と論理的理解の差…?わかります(わかってない)。
というわけで、ここでは劇場版スタァライト(以下、劇場版)において、少し考える必要がありそうだなと思ったことを落ち着いて考えていきたいと思います。
言うまでもないですがネタバレありです。
舞台少女と観客
劇場版終盤、愛城華恋はこっちを見て言います。「誰かに見られてる?」
これ、レヴュースタァライトだから、「舞台」をテーマにしているからこそ言えるセリフだと感じられてめっちゃ好きなんですよね。TV版でもキリンが見てきましたが、舞台って本来そうだよなと思わされる。同じ空間に役者がいて、観客がいる。見られている意識で役者は演じ、役者が歌えば観客が手拍子で応えるということさえもある。実際の舞台では、役者がいて観客がいるというこの関係と見る―見られるの意識は当たり前のこととして受け入れられるが、アニメではこれは当たり前ではない。だからこそ、このセリフと視線は違和感とともに「舞台とはこういうものだ」というメッセージを突き付けてくる。そして、この意識が、愛城華恋を真の意味で「少女☆歌劇レヴュースタァライト」の舞台少女にした。「演じ切っちゃった。レヴュースタァライトを…。」とこちらを見て言うところにこのことが象徴されていると考えられる。
「少女☆歌劇レヴュースタァライト」の舞台少女であるということはどういうことか。次はこれを天堂真矢の”This isキャンセル”を用いて考えてみます。
天堂真矢の”This isキャンセル”
これ、もはや笑える方向で面白かったので印象に残っている人は多いと思います。ですが、そういえば何でキャンセルされたかわからなくないですか?クロディーヌズルくね?「捻じ曲げるのか?!舞台の理を!!!」と真矢がキレるのも然り。
自分なりに考えてみた結果、ポジションゼロは本来「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のレヴューで出てくるものだから、この時点ではポジションゼロ宣言できない、という解釈になりました。
この解釈の根拠は、真矢クロのレヴューの時に何故か「ACT/~~」というサブタイトルが入っていたことです。真矢がThis isをしようとした時点はACTの終わりではあったが、「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のレヴュー、つまり”~~のレヴュー”で表記されるレヴューじゃなかったために、本来のポジションゼロはなかった。だから”This is”キャンセルが起こったということです。そして、続く「魂のレヴュー」で天堂真矢が感情をむき出しにして戦い、はじめて決着がつく。
そういえば、劇場版で”~~のレヴュー”と表記されるのは舞台少女がちゃんと上掛けを着ている時だけだったような気がします。そういうわけで、”~~のレヴュー”こそが真の意味で「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のレヴューであり、これこそキリンが、そして私たち観客が観たかった感情vs感情のレヴューであると言えます(以下、「レヴュー」)。
これを踏まえると、劇場版におけるトマトの意味も少しわかってきます。
トマトについて
最初の最初で突然弾け、大きな印象を刻んだトマト。エデンの果実という説もあるトマト。花言葉は完成美、感謝。そして回文。野菜化し、燃料として燃えていったキリンのことを考えると、やはりトマトは観客から舞台少女への燃料、血肉の象徴だと言えます(※劇場版パンフレットのインタビューも参照)。一度死んだ舞台少女はトマトを喰らい、次々とエネルギーにみちた「レヴュー」を展開していく…。愛城華恋以外。
愛城華恋だけ、トマトを食べずに「レヴュー」の舞台に上がっています。トマトに背を向けてひかりと話すシーンもありました。トマトを食べていないので真の意味で「少女☆歌劇レヴュースタァライト」の舞台少女ではなく、だから一度死に、再生産する必要があった。その際の燃料はひかりからの手紙などの思い出だった。最後には、二人の約束の象徴である東京タワーさえもへし折ってポジションゼロを決める。
「演じ切っちゃった。レヴュースタァライトを…。」
そしてひかりからトマトを受け取り、向かう。次の舞台へ。
大場なな
皆殺しのレヴュー、ヤバすぎ・・・!!!TV版、ロロロに続いてここでも圧倒的存在感でやってくれました...。でも狩りのレヴューで純那に負けちゃうんですよね~~~。その下剋上がいい。レヴュー曲「ペン:力:刀」っていうタイトルも好きです。純那が圧倒的チカラである大場ななから短刀を奪い、それをペンとして、武器として己の言葉を紡いで勝利するという展開がここに全部表れてます。これがペンは剣よりも強しか。
というのはさておき、ここで大場ななを挙げたのは、トマトの話と若干関連すると思ったからです。劇場版で彼女は「バナナプリン、バナナマフィン、バナナンシェ。いっぱい食べてもらったな...。それでもみんな飢えて渇いて・・・」みたいなことを言います。ここにおけるバナナのお菓子がトマトに相当し、「レヴュー」を望む私たちののように、大場ななも彼女らに再演を望んでいたのだということを象徴しているようにも思えます。皆殺しのレヴューで訳知り顔に「だからオーディションじゃないって」と言ったり、決起集会の塔の裏でこっちを見てきたり、チョコバナナのスマホケースがキリンの配色だったりするので、やっぱり他の舞台少女と違って一段メタい存在であるような感じがしますね…。最強の風格。強いお酒を飲んだみたい。
TV版のシクラメン
劇場版の話からは少し外れますが、聖翔大劇場の前にある↓の花です。画像は12話の最後らへん(スタァライトチャンネルより引用)。
シクラメン、ギリシャ語で円を意味する語に由来するらしく、それだけだと大場ななのループを想起させるなぁという感じなんですが、名前が死、苦に、色が血に通じる(のでお見舞いには不適切)という話や、「豚の饅頭」という別名があったりする、なんとも恐ろしい花らしい。
キリンが貪る「レヴュー」と豚の饅頭…?わかります(わからない)。
終わりに
それっぽいことをちょこちょこ書いてきましたが、解釈なんで正しさはグラデーションの中です。正しいかもしれないしそうじゃないかもしれない。あるいは、解釈とは、その内容の正しさではなく、その行為自体、考えること自体に意味があるのかもしれません。解釈一致/違いはあっても、明確な解釈正解/間違いはないのかもしれません。
そういう意味で、劇場版はなかなか解釈しがいのある作品だなと感じました。各所のモチーフにも様々な元ネタがあったりしますし、それらを拾うかどうかで人ごとに観方は違ってくるということもあるでしょう。
このような様々なモチーフを時間や空間、ジャンルをブンブンと乗り換えて全力で投げかけてくる映像と感情的な「レヴュー」、舞台少女と観客の見る―見られる、あるいは喰うー喰われるの本能的な、野性的な奪い合い。
これが、ワイルドスクリーンバロック。
―――わかります。