線路は続くよどこまでも

気持ちが昂った時に書きます

特に意味は無い。

 こんにちは、れいるです。まずはこの記事を見つけてくれてありがとうございます。

 近況としては、就活は今期撤退ということで留年することにしました。ポケモンカードは今のところオフシーズン。大学も週に一コマだったのが最終回を迎えてめでたく夏休みに突入しました。

 というわけで暇です。人間、暇になるといろんなことを考えてしまうようで、この記事を書いてみようと思ったのもその延長線上にあるのでしょう。

 今回は、暇の中で考えたそのいろんなことをとりとめもなく綴っていこうと思います。徒然草みたいな趣ですね。

 

 まぁ、時期も時期で、頭に浮かんでくるのはあまり楽しいことではないんですけどね。僕自身の憂鬱に付き合ってくれる優しい方に改めて感謝を。ありがとう。

 

将来見えなさすぎ問題

 どうやら、僕は自分のことを決める時、できるだけ先を見据えてからじゃないと行動しないらしい。決断に慎重ということなのか、無駄なことをしたくないだけなのか。

 就活の時期は結局将来への見通しがあやふやなままだったので、決断も弱いままなあなあで過ごしてしまいました。

 

 将来、見えないよな。

 

 小学生の頃からずっと抱えていたことのような気もします。将来、わからなさすぎる。卒業式とかで、将来の夢を表明させられた経験、ありませんか?そんな時、周りはみんなそれをちゃんと形にできるのに、僕は出来なかった。今となっては、周りはそんなに深く考えずとりあえず出していただけなのかもしれないとは思いますが、当時の僕は、自分にだけ夢が無いような気持ちになりました。

 社会について何もわかっていない小学生に将来像を聞いてもなんの意味もないのにな。意味のない質問に真剣に答える必要なんてないのにな。

 

 という感じでひねくれている僕ですが、社会のことをちょっとは知り、将来への決断が迫られるいま現在でも、同じことで悩んでいます。変わってないですね。もしかしたらこれがアイデンティティなのかもしれません。

 

 たぶん、考え方が違うんだと思います。将来、未来のことなんて実際誰にもわからないんです。それなのに僕はその未来を見据えてからじゃないと行動できない。

 

 行動のその先に未来があるのに。

 

 未来がわかっていない状況での行動って、怖いしカロリーも使いますよね。すべてが無駄になるかもしれないし、選択を間違えて取り返しのつかない後悔をするかもしれない。でも、今はそれをしないといけない。僕にはまだそれができなかった。

 

 就活での失敗は必然だったんでしょう。受け入れるしかない。この失敗を経て、上のような自己理解につながったと考えると、別に嘆くことじゃないと思います。思うようにしてます。この経験をちょっとは将来への判断材料にしつつ、わからない中でも、とにかく歩を進める。そんな感じで来年は堂々と就活したいです。

 ちょっと明るくなりました。

 

ないものねだり

 将来への見通しもそうですが、僕が何か行動するとき、そこに意味を求めがちだと感じています。意味があってほしいんです。意味のことが好きなんでしょう。

 ハンドルネームの由来とか、花言葉とか。回文を作るのにも、意味が通っている方が好きです。

 

 そして、人生にも意味があってほしい。

 そんなものは無いのに。

 

 正確には、元から存在する意味は無いということです。そもそも意味っていうものは、結局誰かがある事象に対して勝手につけるものだと思うので、事象そのものに先天的な、本来的な意味は無いと考えています。あらゆる言葉の意味でさえ、大昔にそれを作った人がいる。上の三つの例(ハンドルネームの由来とか)も、人が作ったものですし。

 というわけで、人生に意味は無い。無い。「なぜ生きるのか?」という質問に対して、「生まれたから」とか「死にたくないから」としか答えられない。

 

 人生に意味を求めても無いものは無い。探して見つかるものじゃない。

 

 今までないものねだりをしていたことに、ようやく気付きました。人生に意味があってほしいなら、それは探すんじゃなく、自分で創るしかないのかもしれません。自分で作るのが難しいから、神様がそれを作ったということにしてしまうのが宗教なのでしょうか。

 

 自分で自分の人生を創るというのも行動のひとつですね。行動しないと得るものは無い。あぁ、面倒くさい。

 人生、面倒くさい。

 

 この面倒くささをいかに乗り切るかが、うまいこと生きていくための鍵なのだと思います。

 

倫理

 倫理、道徳、モラル。大事ですよね。自分で自分を善良な人間だと思えないことには、自己肯定は難しいと考えているので、倫理観は大事だと思います。

 何か行動を起こすとき、「もしかしたら自分は間違っているのではないか」と立ち止まって考えるのが倫理の最初の一歩だと思っているのですが、その結果、行動を起こすのを渋っているという節もあるのかもしれません。

 あんまり倫理に固執しすぎると、行動にも制限が生まれる。

 僕の場合、特に他人に干渉することとなると行動をめちゃくちゃ渋る傾向があると感じています。自分の行動で他人に迷惑を掛けたくないので。おかげで自分のことを他人に話さなくなったり、何かイベントに誘うのも苦手になってしまいました。

 基本的に何もしなければ何も悪いことは起きないので安心ですが、そうも言ってられないのが世の中です。

 自らの意志、判断で行動を起こさないとうまくいかない物事もある。

 自分の責任で起こす行動、しんどいですよね。

 

コミュニケーション

 基本的に怠惰で省エネなので、事務的なこと以外にあまりコミュニケーションを取らない。誰かと会話することも随分減ってしまった。高校時代は帰路でどうでもいいような話題でもゲラゲラ笑って腹を抱えていたような気もするのに。ただの思い出補正かもしれませんが。

 しかし、社会はコミュニケーションで成り立っていると言ってもいい。誰か一人だけでできる仕事はほぼない。

 これもまた、カロリーを使うので避けていた行動のひとつだ。なんか話せ。

 

変わりたいけど、変われない。

 このままの自分ではいたくないんだろう。なのに、変わろうとしてこなかった。なんだかんだで生きてこれたから。しかし社会からの認めが必要となってくる以上、少し変わる必要が出てきました。一年そこらの時間でどこまで望む自分になれるのか。少なくとも、やることはやったと思える就活ができるまでにはなりたい。

 積極性。主体性。能動性。どこまで手にできるか。

 

線路は続くよ

 ごちゃごちゃしたのをちょっと吐き出してすっきりしました。強く生きたいです。なんだかんだ言って人生って終わるまで続くんですよね。何なんでしょうね。

 こんな駄文にお付き合いいただき、ありがとうございます。

 すまねぇ、寝ます。(回文)